特別対談
青山 和弘
Aoyama Kazuhiro

政治ジャーナリスト
青山学院大学客員研究員
元日本テレビ政治部長次長兼解説委員
同行援護従業者(視覚障害)養成研修一般過程修了
1968年
千葉県生まれ
1992年
東京大学文学部社会心理学科卒業、日本テレビ入社
1995年~96年
米国コロンビア大学東アジア研究所 客員研究員
2011年~13年
日本テレビ外報部ワシントン支局長(オバマ大統領、米大統領選挙を取材)
政治部では野党キャップ、自民党キャップを歴任した後、国会官邸キャップ2回(通算6年)。
羽田政権から高市政権まで、17の政権を取材。
阪神大震災、民主党結党、郵政解散、政権交代、東日本大震災、森友・加計学園、安倍トランプ会談などを現場取材・リポート。
直接担当した政治家は、枝野幸男、前原誠司、鳩山由紀夫、野田佳彦、山﨑拓、武部勤、野中広務、亀井静香、安倍晋三、小渕優子、小野寺五典、林芳正、武田良太、小川淳也など、与野党を問わない幅広い人脈と分かりやすい解説には定評がある。
【テレビ】
「教えて!ニュースLIVE 正義のミカタ」(朝日放送)毎週土曜日9:30レギュラー
「every.しずおか」(静岡第一テレビ)月3回程度レギュラーほか
「そこまで言って委員会NP」(読売テレビ)ほか不定期出演
【ネット】
「Abema Prime」(ABEMA)不定期出演
【ラジオ】
「上泉雄一のえぇなあ!」(MBSラジオ)隔週火曜日レギュラー
【書 籍】
「恩讐と迷走の日本政治 記者だけが知る永田町の肉声ドキュメント」(文藝春秋)
「安倍さんとホンネで話した700時間」(PHP研究所)ほか
【出 稿】
「文藝春秋」「週刊新潮」「デイリー新潮」「東洋経済オンライン」など
特別対談
ー青山和弘(以下、青山)
本日はよろしくお願いいたします。
遊佐さんは、これまでの人生の中で、ご自身で「日本一」を獲得したり、「日本一」のその瞬間を間近で見てこられました。そのことにフォーカスを当て、お伺いしていきたいと思います。
まず、高校時代ですが、私の息子も野球をやっていますのでよく理解しているつもりですが、「野球で横浜高校」と言うと、名門中の名門、日本を代表する強豪校にご入学されます。
ー遊佐大輔(以下、遊佐)
いつもありがとうございます。
よろしくお願いいたします。
はい。お陰様で、本当にたくさんの皆様にご支援いただき、「野球」「麻雀」「政治」の世界で、得難い経験をさせていただきました。
たしか幼稚園年長の頃だったと思いますが、親に初めて横浜スタジアムに連れて行ってもらったんですね。球場に入った瞬間に、見たこともないたくさんの照明と、ピカピカに輝いているバットやヘルメットを見て、すぐに「僕もやりたい!」と。
翌週には親の了解なく近所の野球チームの練習に勝手に混ざっていました(笑)
そこからずっと野球中心の生活で、たまたま横浜高校に声を掛けていただき、入学する運びとなりました。
ー青山
1998年の横浜高校は、甲子園「春夏連覇」を達成した、高校野球史に残る強いチームでした。私も仕事そっちのけでテレビに釘付けでした(笑)
ー遊佐
1学年上が松坂大輔さんたちの世代なのですが、もうレベルが桁違いすぎて、入学早々からやる気を失うほどでした(笑)
もちろんレギュラーには程遠かったのですが、歴史に名を残すチームにいられてラッキーでした。
ー青山
さて、そうした中で、遊佐さんは怪我をしていまい、野球を離れます。その時の心境は?
ー遊佐
一言で言うと、絶望ですかね。ずっと野球ばかりやってきましたので、「終わった…」って。
ー青山
そこから麻雀で日本チャンピオンになります。麻雀を始めたきっかけは何だったんですか?
ー遊佐
私は野球推薦で高校に入学していたので、本来は退学でもおかしくなかったんです。
ただその時に、野球部コーチであり、担任の先生だった田中謙二先生が「何でもいいから日本一になれ!」と背中を押してくださって、友人たちと覚えたての麻雀を楽しんでいた時期でもあったので、徐々に「この世界で日本一に挑戦してみたい」と考えるようになりました。
麻雀の専門誌に掲載されていた「飲まない(お酒)」「吸わない(タバコ)」「賭けない(お金)」をモットーにしている学生麻雀の会場に行きました。
ー青山
雑誌を見て、突然行ったんですか?すごい勇気です(笑)
今でこそ麻雀は「頭脳スポーツ」「教育」「脳トレ」といったイメージですが、当時はまだまだですよね?
ー遊佐
恐怖心よりもワクワクの方が強かったです。
でも誤算があって…。
学生麻雀っていうのは、大学生が中心なんですよね。そのことを知らなくて、突然高校生が行ったものですから困らせてしまいました(笑)
「どうしてもここに来たい!」とわがままを言って、特別に仲間に入れていただきました。今思えば野球を始めた時と同じような状況ですね(笑)
ー青山
さすがの行動力!(笑)
やはり東大生、京大生、四大生とか、「成績優秀者=強い」という印象でしたか?
ー遊佐
野球でも負けたら終わりのトーナメントでの戦い方と、ペナントレースのように長い期間で優勝をめざすのとでは戦術が異なりますよね。
麻雀も、単発の大会では私のように運良く勝てた人がいたとしても、年間単位の勝負になるとやはり強い人、敵わない人はいました。
現在、「Mリーグ」で活躍している小林剛さんは強かったです。
ー青山
おー!
「スーパーデジタル」の小林プロですね!
私も学生時代に少し麻雀をしていましたので、お名前は存じ上げています。
ー遊佐
麻雀は、効率重視なのか、直感を信じるのか、大きく分けて2つのタイプに分類されます。小林さんは完全に前者。いつもダメ出しされていました(笑)
ー青山
プロ試験、レッスンプロ試験にも合格されます。
ー遊佐
「最年少記録をつくれるよ!」って勧められて、猛特訓しました(笑)
せっかく資格を取らせていただきましたので、ご高齢の方や不登校の小中高生を対象に麻雀教室を開いたりしてきました。
ー青山
高校生でカルチャースクールの運営ですか。当時は珍しかったのでは?
ー遊佐
だと思います。横浜や渋谷、西永福によく通っていました。取材とかメディア出演も多かったですよ。
ー青山
そうした実績が評価されて大学に進学します。
ー遊佐
正直、高校を卒業すること以外は何も将来のことを考えていなかったんです。
ただ、3年の夏くらいに、「けん玉日本一で大学に合格した人がいるらしい。遊佐もいけるよ!」というお話を先生からされまして…。
麻雀界の皆様に推薦状を書いていただいたり、応援をしていただき、桜美林大学に合格することができました。
ー青山
そこでは再び野球にも励むことになります。
ー遊佐
「もう野球はやらない」と思っていましたが、体を動かしたら怪我が治っていたんですよね。で、軟式野球に誘われました。
ー青山
関東大会で優勝されました。
ー遊佐
たまたま良いメンバーが揃っていて強かったんですよね。神宮球場や千葉マリンスタジアムで試合をさせていただきました。
ー青山
順風満帆に見えたのも束の間、おじい様の会社が閉鎖になります。
ー遊佐
大学を辞めて、社会に出る決断をしました。就職先は、瓶や缶を選別し、リサイクルする民間の工場です。
ー青山
その会社が、菅義偉・元内閣総理大臣を応援されていたんですか?
ー遊佐
働き始めて数か月が経った頃、工場長が「若いんだから本社で営業でもやってこい!」って、本社に掛け合ってくださり、事業ゴミの契約を取ってきたり、ゴミ袋を販売する営業の仕事をさせていただくことになりました。
営業マン初日、本社に行くと、菅さんの顔が入った看板が貼ってあったんですね。聞くと、衆議院議員になる前から応援をしているとのことでした。
ー青山
運命の出会いですね!ところで、遊佐さんのご家族に政治家はいらっしゃるんですか?
ー遊佐
いやいや、いません(笑)
政治とはまったくの無縁でしたし、別の地域に住んでいたので、菅さんのことも知らなかったです(笑)
ですので最初は「誰?」「政治家なんてうさんくさい」「選挙の時だけ綺麗ごとを言っている」といった、そもそも政治にはネガティブな印象しかありませんでした。
ー青山
時は2005年。「郵政選挙」で小泉旋風が吹き荒れます。
ー遊佐
人生で初めて、ボランティアで選挙をお手伝いをすることになりました。生意気だった私は、「生の政治家を近くで見て、どんな本性なのかを暴いてやる」くらいの感じで、興味半分で参加しました。
ー青山
選挙中はどのような活動を?
ー遊佐
どうせ手伝うなら徹底的にやろうと考えました。
序盤は大勢いるボランティアスタッフの一人という感じでしたが、中盤くらいからは秘書さんと一緒に活動させてもらえるようになりました。
早朝はビラ配り、日中は街頭演説や集会の設営、夜はまたビラ配りといった感じです。
終盤に差し掛かり投票日が近づいてくると、菅さん本人を交えた深夜のミーティングにも参加することができました。
ー青山
永田町では有名な話ですが、菅さんの選挙活動は「菅軍団」と呼ばれ、圧倒的な活動量を誇ります。そのミーティングに入れてくれたわけですね。
そして見事、衆議院議員4期目のご当選を果たされます。
ー遊佐
選挙が終わり、斜に構えていた、政治を甘く考えていた自分が情けなくなり、まずは猛烈に大反省しました。
契約を取る、販売するなど、ビジネスの世界ではそれなりにやっていかれる自信がありましたが、結局それらの究極の対価は「お金」なんですね。
でも、政治は違う。少なくとも菅さんはまったく違いました。
候補者が「商品」ならば、対価は「票」であり、それは「人の心」なんです。
こんな世界があるのかと衝撃でした。
そのシビアな現場に身を置き、多くの方から応援され、勝ち続け、しかも世襲でもなく、ご自身の努力で信頼と実績を掴み取ってこられた。
選挙前後で、完全に人生観が変わりました。そして、菅さんの厳しくも優しいお人柄に心酔し、「この人の下で働いてみたい」思うようになりました。
ー青山
それほど衝撃的な出来事だったんですね。ほどなく秘書として採用され、遊佐さんも政治の世界に入ることになります。
ー遊佐
菅さんは、自分のことをよく知ってほしいという考えから、必ず新人秘書を近くに配置します。
運転手からスタートし、国会担当秘書、地元担当秘書と、さまざまな役割を与えてくださいました。
また、「人は辛い時にこそ本性が出る」ことを学びました。
寝不足の日々でしたが、知れば知るほど菅さんのことが大好きになっていきました。同僚の秘書もみんな菅さんのことが大好きです。
ー青山
秘書として着実に成長された遊佐さんは、2011年の統一地方選挙(横浜市会議員選挙)に立候補されることになります。経緯を教えていただけますか?
ー遊佐
本来は別の方が候補者に決まっていたのですが、党から公認される前日に急遽辞退されました。
代わりの方を探したのですが見つからなかったらしく、ある日突然、菅さんから呼び出されました。
「遊佐しかいない。行く覚悟はあるか?」と。
ー青山
なんと?
ー遊佐
「出たいも出たくないもありません。行くも行かぬも菅さんが決めてください。私は菅さんに従うのみです」とお答えしました。
ー青山
遊佐さんらしい腹決め、菅先生は喜ばれたのではないですか?
ー遊佐
握手をしながら「今までありがとう」と。
秘書として5年が経っていましたが、そのようなお言葉をいただけるとは想像もしていませんでした。毎日怒られていましたので(笑)
加えて、「今日からもう秘書ではない。おれに尽くしてくれたように、これからは地元のために尽くしてほしい。頑張れ!」と背中を押してくださいました。震えましたね。
ー青山
2011年というと、3月11日に東日本大震災が発生します。
ー遊佐
祖父の故郷が宮城県で、親戚もおりましたので安否が気になる。でも、選挙は翌月4月10日。
「どうしよう」「何ができるのか?」「本当に選挙は行われるのか?」といった状況でした。
ー青山
未曽有の大災害。一方で選挙は執行されることに決まりました。大混乱の中で、現職有利、新人には厳しい選挙戦だったかと思います。
ー遊佐
「すぐやるべきこと」「できること」「やりたいこと」を分けて、一つひとつのことに丁寧に取り組んでいこうと考えました。
当選の暁には、まずは地元や議会でしっかり活動し、その上で横浜と東北をつなぐ架け橋になりたいと訴えました。
ー青山
ご当選され、約束を果たします。
ー遊佐
まず議会では、横浜にどのくらいの放射線量が来ているのか、そのデータがありませんでしたので、関係者の皆様とも協力し、数値を明らかにしました。
災害に備え、崖地対策の見直しも行いました。
ー青山
今でこそ全国的に対策に乗り出していますが、その時につくられた崖地対策のルールは、現在も日本全国のモデルとなり受け継がれています。
ー遊佐
日本最大の基礎自治体・横浜でつくられた制度は、必ず全国に波及して好影響をもたらすと考えていました。
次に、横浜と東北をつなぐため、地元の皆様と話し合いを重ね、夏は縁日、冬はお餅つき大会を開催する運びとなりました。
売り上げの一部と義援金を被災地に直接届けることで、少しでも長く後方支援させていただけるようにと企画したものです。
縁日では東北にゆかりのあるお店にもご出店いただきました。
ー青山
地元で知らない人はいないと言われる、ご自身のお名前を冠にされた「ゆさ祭り」ですね。
ー遊佐
このネーミング、恥ずかしかったんです(笑)
しかし、皆様のお陰様で、地元を代表するお祭りの一つになりました。
ー青山
お祭りであれば、老若男女問わず参加型で復興支援にもつながる。
キャッチコピー「世代を、つなぐ。」は、ここからきているんですね。
ー遊佐
それは自分で考えました(笑)
「ゆさ祭り」は、多い時には5,000人以上の方にご来場いただきました。
「このお祭りのために娘と孫が帰ってきた」「小さい時に親と一緒にお祭りに行きました」といった声を聞くと、嬉しくなります。
市議生活15年、当時幼稚園生くらいだった子供が投票権を持つ年齢になっているわけですからね。感慨深いです。
ー青山
2期目、3期目、4期目と、それぞれ票を伸ばし続け、歴代最多得票でトップ当選を果たされます。
ー遊佐
私の中では、選挙はオリンピックなんです。4年間、毎日必死に頑張って、途中色々なことが起き、精神的にも浮き沈みがあって、それでも努力を怠らず、たくさんの方からご支援をいただき、苦労の末に本番を迎え、極限の緊張感の中で周囲が納得できるような結果を出す。
政治家にとって最高峰の舞台です。たまらないですね。少しでも自分に甘かったり、手抜きしたら、「選挙に出る資格はない」と自らに言い聞かせて頑張りました。そうでなければトップを維持し続けることはできません。
ー青山
あまりにもストイックです。もしかして選挙が「楽しかった」とおっしゃるのでは?(笑)
ー遊佐
めちゃくちゃ楽しかったですよ。
選挙が近くなるにつれ、手伝ってくださる方が増えたんです。それが嬉しくて、心強くて、ありがたくて…。
4年かけてようやく完成した「土台」が、いざ選挙の時には大きな大きな「ピラミッド」になっているんですよ。
今でも考えるとワクワクしてきます。
選挙中は、「ずっとこのまま選挙期間が続けばいいのに…」と思いながら活動していました。
ー青山
たくさんの政治家の方とお会いしてきましたが、遊佐さんのようなお考えの方は、なかなかレアケースです(笑)
ー遊佐
投票日の方がもっと楽しいんですよ。納得の演技を終えたスケート選手が自信満々に「キスアンドクライ」で得点を待っている状態ですかね。「悔いなくやりきった」気分です。こんなにたくさんの皆様にご支援いただいている自分が負けるわけない。やりきった。絶対にトップだと確信していました。
ー青山
大きな目標を失うと「〇〇ロス」のようになるアスリートが多いのですが、遊佐さんの場合はどうですか?目標とする舞台が大きければ大きいほど、そのような傾向があるとも言われています。
ー遊佐
選挙の9日間以外は毎日しんどかったです。
とくに当選後ですかね。「またゼロから4年間頑張らないと…」と(笑)
「ピラミッドの土台」をつくる活動は、地道で大変です。でも、そこが大事だと踏ん張ってきました。
ー青山
遊佐さんが務められた市議4期15年の中で、菅先生は官房長官、総理大臣と、常に国の中心にいらっしゃることになります。
ー遊佐
驚きはありませんでした。菅さんですから。出会った時から、必ずこうした日が来ると確信していました。
「やっぱりすごいお方だった」という嬉しさと、これからはなかなか地元に戻ってこられない分、自分が何とかしなければ…と考えていました。
ー青山
官房長官時代の安倍晋三・元総理を支え続けてこられたお姿と、新元号「令和」の発表が印象的でした。
また、総理時代には携帯電話料金の値下げ、不妊治療の保険適用など、矢継ぎ早に政策を実行されます。
ー遊佐
そうですね。誇らしかったです。
1年間でどれだけ多くの政策を実現してきたか…。菅さんだからこそできた改革です。一生誇りに思います。
ー青山
一方、コロナ対策では、先頭に立って一生懸命取り組んでいるのにも関わらず、思うような評価が得られない時期が続きました。
ー遊佐
菅さんのピンチに力になれない…。
何もできない自分に絶望し、政治家として生きていく自信を失いました。力になれなくて申し訳ない。情けない。今まで何をしてきたんだろう…。何年もそればかり考えていました。
悔しいです。
ー青山
そんな時にプライベートで訪れたカンボジアで、衝撃的なエピソードがあったと伺いました。
ー遊佐
私は政治家時代、公費での海外出張に反対していました。絶対に本人が出席しなければならない調印式のような舞台が用意されているのならいざ知らず、視野や見識を広げるための視察は、基本的には自腹で行くべきとの考え方からです。
ですので、恥ずかしながら、ほとんど海外に行ったことがありませんでした。
妻と友人と一緒に、初めてカンボジアに行くことになったのですが、そんな狭い見識しか備えていませんでしたので、カンボジア=「裸足」「赤土」「地雷」「詐欺」といった、いわゆる昔のイメージでプノンペンに降り立ちました。
ー青山
カンボジア、行ったことがないので私も同じイメージです。実際にはどうでしたか?
ー遊佐
180度、全然違いました!
めちゃくちゃ都会です(笑)
あと、国の平均年齢が27歳!
とにかく若い世代が多くて活気があり、みんなニコニコしていて、明るくて、おもてなしがすごいです。
ー青山
意外です!
ー遊佐
さらに、ほとんどのお店の支払いは米ドルでのQRコード決済。銀行も手数料無料でQRコードで送受金できます。
Wi-Fi環境が整っているのが当たり前で、SNS上での誹謗中傷はほぼ皆無です。
タクシーを呼んだら1~2分で来ますし、豊富なメニューのフードデリバリーは24時間対応。どれも携帯のアプリから頼めます。
ー青山
日本よりも発達している?
ー遊佐
見方によってはそうかもしれません。
自分がいかに世界を見てこなかったのかを思い知らされました。
そして、カンボジア政府ともお会いさせていただく中で、現地通貨に描かれた「日本国旗」と「日本が建設した2本の橋」を目にすることになります。
ー青山
「500リエル札」の裏面ですね。
ー遊佐
自国の紙幣に、他国の国旗が描かれている…。先人たちの尊い営みに感謝するとともに、両国の絆をまさに肌で感じ、同時に日本人であることを誇らしく思い、震えました。
しかし、それほどの親日国であり、深い歴史と関係性がありながら、多くの日本人がカンボジアの本当の姿を知りません。
私は、そこに果てしない可能性と魅力を感じました。
ー青山
進化したキャッチコピー、
「世界を、つなぐ。」は、そこから?
ー遊佐
学生時代や政治家時代の経験、得難い貴重な人脈や足跡を、未来を担う若者や、後世に残すことはできないか?
次の世代に、少しでも多くの「人生の選択肢」を提供することはできないか?
遊佐大輔という一人の人間の、限られた時間、残りの人生で、日本とカンボジア、日本と東南アジアをつなぐため、人生最後の挑戦をする決断をしました。
ー青山
具体的にはどういった内容ですか?
ー遊佐
「カンボジアの総合窓口」として会社を設立しました。
国内外で専門性の高いプロ集団の方々とパートナーシップ提携を結んでいますので、あらゆる相談に対応できる体制を構築することができました。
すでに多くのマッチングを実現しています。
ー青山
例えば、個人的に「旅行に行きたい」という相談であったり、企業であれば「起業したい」「視察したい」「この人を紹介してほしい」といった相談にも対応できますか?
ー遊佐
もちろんです。カンボジアのことは、まずはご相談ください。
カンボジアには日本のメディア支局がありませんので、一部しか報道されません。正しい情報をお伝えさせていただきます。
ー青山
今後の活動は?
ー遊佐
まず「すぐやるべきこと」は、私を信頼し、すでにカンボジアで起業された方、移住された方へのサポートに全力を尽くすことです。
その上で、「できること」としては、両国の接点をもっと増やすこと。
カンボジアにさらに多くの日系企業を誘致したり、カンボジアNo.1の大学で日本語を学ぶ優秀で勤勉な学生たちを日本の上場企業への就職につなげていきます。さらに、カンボジアには未だ世界に知られていない食品がたくさんありますので、これらを商品化していきます。
ー青山
具体的に「やりたいこと」はありますか?
ー遊佐
カンボジアは、首都プノンペンは都会ですが、少し離れると学校が足りない地域があります。
また、仮に学校建設が果たされたとしても、「先生がいない」「教科書がない」といった問題から、廃校になってしまった学校も少なくありません。
それらの課題をクリアするため、大学と連携し、教員を輩出し続け、未来永劫、維持管理できる学校建設の準備を始めました。
ー青山
もっと広い意味での「やりたいこと」は?
ー遊佐
それはまだ言えません(笑)
これまで私は、多くの皆様にお育ていただきました。皆様の尊いご支援があったからこそ、お陰様で元気に今を迎えることができています。
学生時代は、田中謙二先生、佐藤雄一先生。
麻雀では、池谷雄一さん、小林剛プロ。
政治というよりも人生の「師」菅義偉・元総理、そして後援会の皆様。
自己流にはなりますが、人生に多大な影響を与えてくださった皆様、お世話になったすべての皆様に恩返しができるように頑張ります。
そして、愛する妻・まどかと協力し、3匹の保護猫ちゃん、アズキ、シンバ、ツキミにも感謝しながら、「自分たちにしかできないこと」を追及していきます。
ー青山
遊佐さんが徹底して実践されてこられた「すぐやるべきこと」「できること」「やりたいこと」。
そこに新たに、「自分たちにしかできないこと」が加わりましたね!
これからも期待しています。
本日はありがとうございました。
ー遊佐
ありがとうございました。
これからもよろしくお願いいたします。
編集後記
遊佐さんと初めて出会ったのは、遊佐さんが市議3期目の時です。明るくて、ポジティブで、常に改革マインドと挑戦する気持ちを忘れない、「政治家に必要な要素をすべて兼ね備えた若手議員」という印象でした。
以来、定期的にお会いする機会をいただき、時にはガチンコで政策論争、時にはプライベート話に花が咲き、気がつけば私も遊佐さんの魅力に惹かれた「遊佐会」のメンバーの一人になっていました。
初めて「カンボジア」のことを聞いた時には、正直「えっ?」とも思いましたが、海を渡った後も変わることのない実行力と突破力、そして何より菅先生や後援会の皆様への恩返しに懸ける熱い想いと、国をも動かす斬新なアイデアとアクティブな行動力に心を動かされ続けています。
今回対談をさせていただくにあたり、おそらく思い出したくない辛い時代を回想した内容も含めましたが、それでも遊佐さんは笑いながら「しんどかったですねー」と明るくお答えくださいました。
しかし、そんな遊佐さんでも、こと菅先生のことになると目つきが変わり、とくに総理退陣の時のさまざまな出来事に触れた際には、必死に涙を堪えながら「悔しいです」と語りました。
菅先生から特別な愛情を受けてご成長された遊佐さん。その「親分」の人生を懸けた大切な場面で満足に力を発揮することができなかった…。
実に遊佐さんらしい受け止め方であり、親子以上の関係性を感じました。
まずは一度、カンボジアに行きます。
「足で稼ぐ」とは昭和の話ではなく、令和の現在にでも通用するのだろうか…。
自分の目で見て、耳で聞いて、口に出して、実際のカンボジアの姿を報じたいと思いますし、それこそがジャーナリズムの原点であると考えます。
記者として日本の政治の最前線に携わってきましたが、遊佐さんをきっかけに、国際的な活動にも力を入れていきたいと、新たな目標をもちました。
必ず行きますので、その際はサービスしてくださいね(笑)
インタビューにあたり、ご協力くださった皆様、本当にありがとうございました。
遊佐さんご夫婦、猫ちゃんたち、関係者の皆様の益々のご発展を祈念し、ご挨拶に代えさせていただきます。
青山 和弘
